プロフィール

初めまして、下原明美と申します。

初めて私のブログに来てくださった方に、自己紹介させてください。

【名前】下原 明美(しもはら あけみ)

【生年月日】1961年3月28日

【出身】大阪市平野区

【拠点】三重県名張市

【好きなもの】DIY 猫 ギャラリーめぐり 阪神タイガース ネットショッピング

私は現在アフィリエイトという、パソコン1台でどこにいても稼げるビジネスで生計を立てています。

「ビジネス」というと凄く難しそうですよね。

でも私がやっている「ビジネス」は、ひとりでこっそり(笑)稼げて、私のようなおばちゃんでも楽しくできるアフィリエイトというちゃんとした仕事なんです。

私のような思いっきりダメダメな人間でも、自宅でできてしまう仕事です。

今は毎日が楽しくて充実していますが、この生活に至るまで、紆余曲折ありました。

ここに至る私の物語を赤裸々に書きますね。(笑)

 

忙しい方には、内容があまりに長すぎるので、もくじの流し読みをオススメします!

お時間ある方は、お付き合いくださいねw

生まれた時代が良かった

昭和の空想少女を育んだ温かい家庭

私は、日本が一番良かった時代に生まれました。

1961年、昭和36年ですね。
世の中は、高度経済成長のど真ん中でした。

 

家族は、父、母、5歳下の弟の4人家族です。

父はサラリーマンでしたが、子供たちにはお金をかけてくれた方だと思います。

私や弟がやりたいと言ったら「なんで、それがやりたい?」と聞き、頭ごなしに反対したことは一度もありません。

それが、少しお金のかかることだったとしても。

 

その分、母は陰でやりくりの苦労をしていたことでしょう。

母は実家の父親がしていた洋裁を独学で学び、私たち子供が物心ついたころ「お直し」の内職を始めました。

母は自分では何一つほしいものを買うわけでもなく、その収入で子供の教育にかかる費用を捻出していたのです。

小学生の頃は、楽しい思い出しかありません。

ゲームもパソコンもスマホもない時代。

夏休みはこの上なく楽しく、家族旅行で海水浴、大阪万博も大きな思い出のひとつです。

クリスマスは、夢のような時間でした。
父が私の手を引いて、心斎橋大丸におもちゃを買いに連れていってくれました。

子供のころの私は、空想ばかりしているノンビリした女の子でした。

夜寝ていても、面白い夢をたくさん見ました。

通学路の水たまりに雲が映っているのを見て、自分が空を飛んで、あの雲の向こう側へ行くのを想像していました。

授業中も先生の目が、すいかのタネみたいで可笑しくなって・・・。
廊下に立たされました。(笑)

何を見ても、「何か」に見えて「世の中って楽しい!」と感じながら生きていた気がします。

 

なぜ私は、空想ばかりする子供になったのか?

思い当たることがあります。

想像力と情報収集の習慣を身につけた子供時代

私の父は本が好きな人でした。

父に連れられて、よく本屋さんに通いました。

今の子供たちのようにゲームがないので、本はその当時の娯楽だったのでしょうか。

とにかく、たくさんの児童書を読んでいました。

本は私の知らないことをいっぱい教えてくれる。

そして、私を縛らず自由にさせてくれた温かい家庭環境。

本と家族が、私の想像力を育ててくれました。

それが、いつの間にかエスカレートして空想家に・・・

でも、想像力がこれから生きていくためにどれほど大切か、私はずっとずっと後になってから知るのでした。

そして私の情報収集の歴史も、ここから始まっています。

本を読めば、知らないことも分かるようになる。
今では、パソコンがあれば何でも調べられます。

情報収集の習慣も、その後の私の大きな武器になりました。

 

中学校に入っても本が大好きで、とうとう自分で小説(のようなもの)まで書くようになりました。

登場人物が毎晩、私の夢に出てきて物語の展開を教えてくれます。

クラスでは、私の小説(のようなもの)を心待ちにしてくれる友達もいて、書く励みになりました。

 

そんな入学間もない頃、私は本の世界とは全く関係のない、とんでもないチャレンジをします。

最大の弱点を克服した中学生時代

なんでやねん!かなづちが水泳部?

私は、中学校入学時点で全く泳げませんでした。

「かなづち」どころか、お風呂のシャワーも無理なくらい水がコワイのです。

それなのに、部活に選んだのが水泳部!

なんで!?

友達はみんな、びっくりしていました。

「このまま大人になったら、私は一生かなづちや。」

「それどころか、水に落ちたら即死や。」

何か意味のわからない危機感を持ってしまい、私の最大の弱点を克服したくなりました。

水泳部に入部しようという生徒は、どんな生徒かわかりますか?

泳げる人です、もちろん。

当然、私は浮きます。

いや、浮けないけど浮いてました。(笑)

 

練習中に何度も溺れそうになりました。

今では絶対非難の対象になると思いますが、顧問の先生にデッキブラシで沈められたこともありました。

「何をモタモタ泳いでる!」ってね。

厳しい先生だったから、みんな怒られながら毎日3キロ泳ぐんです。

私のような泳げない生徒が、毎日3キロプールの中を行ったり来たりしていると、どうなるか?

人生でただひとつドヤ顔で語れること

これがなんと、2か月で3種目泳げるようになるんですね~w

あの鬼コーチのお陰ですよ。(笑)

 

中1の夏休み、水泳の地区予選大会で背泳100メートルで優勝し、大阪大会にまで出場してしまいました。

この大阪大会のプールが、学校のプールと違って50メートルプールで、しかも一番浅いスタート地点でも足が立たない!コワイ!

さすがに大阪大会は予選落ちでしたが、水泳部のみんなが一生懸命応援してくれて、いつもはこわーい先生がほめてくれたことが凄く嬉しかったです。

人間って、できへんことなんかないんちゃう?」

57歳の今でも、壁にぶちあたったとき必ず自信を取り戻せる大きな出来事になりました。

なんちゃって優等生の高校時代

またそんな無茶して!人前で歌うなんて

中学校時代に大挑戦を果たした私は、高校時代には音楽のジャンルに。

私の高校時代は、フォークソングからニューミュージックに移行する時代で、特に音楽のジャンルも今より豊富だったように思います。

洋楽もどんどん入ってきて、カーペンターズやオリビア・ニュートン・ジョンのレコードを友達と貸し借りしていました。

キッスが好きな子、キャロルが好きな子、アリスが好きな子もいました。

そんな高校入学の春、新入生歓迎会で先輩がカッコよくギターを弾いて歌っているのを見て、私もやりたい!って思ってしまったのです。

さっそく、軽音部に入部!

全く触ったこともないギターを弾いて、みんなに私の歌声を聞かせたいと考えました。

あ~、今考えても「よう、やるわ!」

私は高校受験のとき、偏差値54でした。

小学校からの友人と同じ高校にいくために、偏差値48の学校を受験していました。

余裕で入った高校だったので、中学校時代には感じたことのない優等生気分で、何をしても楽しかったです。

若い時って、勘違いだけで楽しく生きられるもんです。(笑)

 

かなづち克服も「人見知り」が露呈

ところが、文化祭で私は自分の大きな弱点を知りました。

ギターの練習もばっちり!

「みんな見に来てや~。」の根回しもばっちり!

それなのに、私ってすごーく緊張しぃで人見知りで、初めて会った人になんて話せばいいのか全く言葉が出てこない。

ギターに集中しすぎて、歌詞は間違えるし膝はがくがくで何もしゃべれない。

幸い、前述の小学校時代からの友達が相方だったので、彼女が全部しゃべって盛り上げてくれました。

 

こんなところに、私の大きな弱点があったのか。

 

一応ギターさえ持っていれば、舞台に立っていられるまでには進歩したものの、人前に出ることを好きにはなれないまま。

なんとか3年間、軽音部だけは止めずに続けることができました。

 

青春時代は超バブル!頭のねじが吹っ飛んだ

カッコイイものが溢れていた80年代

高校を卒業して、デザインの専門学校に行きました。

時代は超バブルで、広告関係やグラフィック系の仕事が日本でも急成長。

「デザイン」にお金をかける時代で、おしゃれで目新しいものが色んな業界から出てきました。

ウォークマンもそのころ登場。

本当におしゃれで、カッコよかった~。

そして、バブルといえばディスコです。

学校が終わったら、みんなでディスコへ!

毎日がガラスのようにキラキラしていました。

昨夜の食事会だれが払ったん?

就職も自分で探すこともなく、有名な会社からのオファー。

そこに入って、文房具などの企画やデザインの仕事をして、またオファーのあった広告関係の会社に転職。

その間も、毎日キラキラなディスコか食事会。

一切、お金なんて使わないからお給料はそのまま貯まっていきます。
次の日、会社での会話がこわいです。

「昨日の飲み会の会計、誰が払ってくれたん?」

「さあ~???」

彼氏でもない人に、高級ブランドのバッグや時計までプレゼントされて最初は驚きましたが、終いにはそれを質屋で売って生活してました。

世間にお金が余ってたんですね~。

ほんと、異常な時代ですよ。

祝・結婚、そして2つの宝物

娘のために郊外へ引越したノンビリ主婦

バブルも少し、落ち着いてきたころ私は結婚しました。

結婚から3年目に長女が生まれて、三重県名張市に家を建てました。

大阪への通勤は大変だったので、それまで持っていた仕事は一旦やめて真面目に主婦をしていました。

その2年後に次女も生まれて、平和な日々が続きます。

主人は収入が良かったので、私が働かなくても何も心配なく・・・

その時は、そう思っていましたね。

なんせバブルではじけすぎて、頭のねじを何本か落としてしまってますから。
分かりやすく言うとチャラくて軽いんです、私。

なんの不安も心配もない生活。

長女と次女、この2つの宝物を胸に人生で一番幸せな時間を過ごしていました。

専業主婦から化粧品の代理店に

毎日がキラキラだったバブルが崩壊した90年代、私に転機が訪れます。

当時、気に入って使っていた化粧品の代理店を始めたのです。

はじめは仕事にするつもりは全然なくて、自分が安く消費したかったから始めたことです。

ところが思いがけず、この代理店業がママ友の間でどんどん広がっていきました。

沢山の人が私の傘下で代理店契約してくれたために、私はチーフ代理店のような立場になってしまいました。

どうせ働くなら、ふたりの娘に不自由させないくらいの教育費を稼ぎたい!

いつかこんな希望を持つようになりました。

 

そして、私の気に入っている化粧品を周囲の人たちが支持してくれるという気持ちが、一番嬉しかったです。

初めて「感謝」という心が自分の中に見えました。

初めてのお金の苦労

 

化粧品の代理店をして、初めてお金を工面するということを経験しました。

その当時の代理店は、在庫を持たなくてはいけませんでした。

何百万単位のお金です。

お金の苦労なんて、したことのない私です。

お金の計算も、したことのない私です。

このころ、大好きだった父が61歳で亡くなって、形見分けでまとまったお金が手元にありました。

これを元手に、大勝負に出たので代理店としてはうまく行ったのです。

 

私ひとりがお金の苦労をするだけなら良かったのですが、私の傘下で代理店をしてくれた人たちにまで在庫を強いるシステムがとても辛かったです。

だって、みんな子育て中の主婦なんですから。

 

私はせめて少しでも、傘下の代理店さんの売り上げがあがるように、イベントを企画して奔走しました。

もう一つの弱点「人見知り」克服のチャンス!

私が動いて売り上げを作らなければ!

もう責任感だけで、動き回る日々でした。

代理店さんのお客さんに、お肌のお手入れをしてメイク仕上げまでのサービスをします。

お客さんは、殆どの人が喜んでくれました。

このころに、女性が喜ぶコツを掴んだと思います。

初めて会う人にも笑顔で話すことができるようになりました。

ある日、全国の代理店を集めた本社主催イベントで、私に講師をしてほしいというオファーがきました。

それは、なんぼなんでも無理でしょ。

それをきっかけに、全国のイベントやセミナーで登壇する羽目に。

毎回緊張して、かなり無理をしている自分がいました。

なぜか、人前で話をするのは今でも苦手です。

初めて私を見た全国代理店の女性たちが、どこへ行っても大歓迎してくれました。

まるでスターのように誰かを盛り立てるのが、この業界のやり方です。

ありがたいのですが、なんか違う・・・
私って、そんな立派じゃないのに。

葛藤は誰にも話せず、優等生を演じていました。

頂上から転げ落ちた30代

 

家族のために頑張ったはずの仕事が

毎日笑顔が溢れて、自分もキレイでいられて、毎日着飾って・・・

若干メイク濃い目なので、参観日にも目立ちます。(笑)

こんな化粧品販売の仕事は、本当に楽しい仕事です。

 

お金の工面の苦労に、周囲の人を巻き込まなければ。

私には支払いの心配はありませんでしたが、それが傘下代理店さんの犠牲の上に成り立っていることが辛かったです。

みんな化粧品の在庫を持つために、ご主人のボーナスをつぎ込んでいたからです。

私はこの仕組みがあまりに辛すぎて、自分の経済的安定とチヤホヤされた環境から逃げました。

とうとう離婚してしまった

 

化粧品の仕事はやめてしまいました。
私はあまりにも一生懸命やりすぎました。

最初は協力的だった主人は、私が出張でいない家の中でどんな思いで過ごしていたことでしょう。

そのころの私には、理解してあげられませんでした。

勤勉で真面目な主人にも、私のやっていることが理解できなかったでしょう。

幸せな家庭、サラリーマンの主人に少し贅沢させてあげたい気持ちもなくしてしまいました。

色々試みましたが、時すでに遅し。

離婚を避けることができませんでした。

ふたりの娘はまだ小学生でした。

人生の新しい転機

パソコンがあって、本当によかった

 

華やかな化粧品の仕事をやめ、離婚して、ポツンと残ったパソコン。

化粧品の代理店を辞める直前に、たまたま本社からのすすめで導入していたDOSマシンです。

私は、機械が好きなのでパソコンのことを聞いてすぐ採用していました。

まもなく、Windows95が発売されてパソコンの勉強を独学ですが始めました。

まずExcelを勉強して、メールやインターネットも一通り触っていました。

これが今後の私の大きな武器になるとは、夢にも思わずただ好きだから毎日パソコンには触っていました。

時給1500円の派遣社員に

 

私のこの数年はめまぐるしく変化しました。

専業主婦 → 化粧品の代理店 → 離婚

さて、どうやって生活する?

離婚したのだから、少しでもお金のほしい私。 笑

私を助けてくれたのは、パソコンと人間関係でした。

 

そのころ、知り合いに連れて行ってもらったラウンジで、話が面白いとママさんにスカウトされました。

ちょうど仕事を探していた私は、取り敢えず週3日アルバイトすることにしました。

お酒は好きですが、そんなことが仕事になるなんてありがたいです。

そのお店の沢山のお客さんが、20数年経った今でも私の仕事のプラスになってくれています。
言わば

 

「人脈」です。

 

そして、まだ耳に新しい派遣社員の仕事もこの人脈からの紹介です。

派遣生活のスタートは、主婦にとっては破格の時給1500円。

パソコンができるからということで、紹介してもらえた良い条件のお仕事。

こうして、昼も夜も働きました。

収入に関しては、なんの心配もありませんでした。

 

働きすぎて体がボロボロ

 

ところが、働きすぎて体を壊しました。

生まれて初めての病院通い。
婦人科系の病気です。

若さと、健康を過信していました。

私のように健康な人間でも、無理をしてはいけません。

本当に無茶をしていたのだと反省しきり。

もう夜、働くのはやめました。

ここから、15年くらい派遣社員の生活が続きます。

ベテラン派遣社員の逆襲

リーマンショックがきっかけで

 

派遣社員は、パートで働くよりずっと収入はいいです。

時給は1000円以下になることはないし、期間も結構長く働ける。

面倒なことは社員さんがやってくれるから、自分が任された仕事だけ完璧にやればいいのです。

私にとって、派遣社員の美味しいところは、新しいソフトを次々マスターできるチャンスがあってスキルアップがはかれることです。

建築の会社ではCADを習得したり、個人企業ではホームページを作成する必要があって、あの高額なAdobe系のアプリケーションを購入してもらって勉強できました。

Windowsやofficeの進化も逐一見てきたので、年齢は重ねても一応ついていくことができました。

しかし、派遣社員とというものはやっぱり「使い捨て」のイメージが私にはあります。

リーマンショックで、自動車部品の会社にいた私は切られました。

幸い、リーマンショックとは縁の少ないお菓子の会社に拾ってもらえたので、失業は免れたものの自分の立場を再認識する出来事になりました。

すぐに元いた自動車部品の会社から、呼び戻してもらえたのですが、ずっと自分の立場は意識していました。

派遣社員やめます!

 

派遣法って、しょっちゅう変わってましたが、そのたびに自分の処遇を心配するのも疲れます。

50歳を過ぎた私にできること。

これをしっかり考えながら、派遣生活から抜け出したいと思うようになりました。

私には、パソコンしかありません。

テレビはなくても、パソコンさえあれば私の世界は広がりました。

子供のころ、私の世界を広げてくれた本のように、私にはなくてはならないツールです。

まだ会社に行きながら、毎日ネットで自分にできそうな収入の道を模索していました。

アフィリエイトに出会えた

アフィリエイトって、どうやるの?

 

「アフィリエイト」と言う言葉だけは、知っていました。

2003年ごろに、和歌山の友人がアフィリエイトっぽい?ことをしてお金をもらったと、話していたのを覚えています。

簡単なことです。

自分が発信したいメディアをつくり、そこに広告を載せるだけ。

ところが、いざ始めるとなるとやり方が分からないのです。

まず、何をどうすればいいのか。

私は、片っ端から調べました。

立派なノウハウコレクターに

 

アフィリエイトについて調べるうちに、私は立派なノウハウコレクターになりました。

それはそれは、結構お金を使いました。

バブル世代の私です。

「そりゃあ、お金使わないといいものはできませんよ!的考え」でいましたから、なんの罪悪感もなくアフィリエイトを勉強するために、100万近くのお金を使いました。

最初はなかなか上手くいきません。

全く初めての世界なんですから、当然です。

ある人にたどり着いて、私は少しずつ収入を上げることができました。

そして、めでたく派遣生活とおさらばできたのです。

私の場合、ノウハウコレクターになった経験は無駄にはなりませんでした。

全ては、後になってから生かされているから。

高齢化社会に最適なアフィリエイト

50歳の自分について考える

 

 

私は派遣社員としてデスクワークをしながら、主婦と子育てを何とかこなしてきた普通のおばちゃんです。

2人の娘も嫁ぎ自由になった私は、50歳を節目に自分の「これから」について考えました。

日本は高齢化、そして間もなく超高齢化。

私もその仲間になることは、そう遠いことではありません。

できるだけ周囲に迷惑をかけず、できれば自分の好きな友人たちに何か恩返しができるような自分でありたい。

私の望みは、その程度です。

もうキラキラの宝石やブランドや、高級車も私には何の価値もありません。

人の価値観は、変わるものですね。

あれほどキラキラ大好きだったのに。笑

アフィリエイトが今の私には、ピッタリだと思うことが度々あります。

アフィリエイトで生活できるようになりました!

 

2015年12月に会社をやめました。

アフィリエイトで生活できる目途が立ったからです。

その月収は何百万もありませんが、お給料よりはずっと高いです。

しかも、月10日くらい働くだけでも安定しています。

 

アフィリエイトで生計が立てられるようになったのは、沢山の人のお陰です。

私ひとりでは、絶対にできなかったことです。

もしアフィリエイトで将来を安定させたいと考える人がいたら、私は少しでもお手伝いしたいですね。

私が色んな人にしてもらったことをお返ししたい。

このサイトを立ち上げたのも、その気持ちからです。

私のプロフィールを読んでくれた方に感謝

ここまで読んでくれた方には感謝です。

バツイチの普通のおばちゃんのアフィリエイト手法をお話ししますので、良かったら時々サイトに来てください。

ありがとうございました。